童年往時<91 吉野先生> |
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2018年 08月 16日
吉野信良先生は、戦前、東京帝国大学を卒業後、満鉄(南満州鉄道)に入社、敗戦ですべてを失い帰国、教師になられた。 柔和な表情と開襟シャツ姿が印象的で、ネクタイ着用の姿を見たことがない。 世界史の授業の合間の雑談で、満州(中国東北部)での日常生活を語られた。どこか遠くを見るような目で、往時を懐かしんでおられるのがわかる。砂ホコリで机やテーブルの上が白くなること、空気が乾燥しているので水分補給のため絶えずお茶を飲むこと等、教科書に書かれていない中国での日常生活の話が面白かった。 先生は意図されたわけでもないだろうが、日常生活のデイテールの積み重ねで歴史の理解を深める方法があることに、気づかされた。 先生の考査は、文章のところどころに空欄があり、それを埋める作業で終始し、例えば、イギリス史で、マグナカルタから名誉革命に至る時代の説明と、年号が書かれていて、空欄に王様の名前など入れる。 それを空欄のすべてに、「王様が」と入れた豪傑がいたと、先生が語られたことがあった。 もちろん、不正解なのだが、最近になって、この話を思い出した。 高齢化に伴う記憶力の減退で、昔、授業で聴いた王の名前など、すべて忘れてしまっている。 マグナカルタにしろ、名誉革命にしろ、誰それがと王様の名前が浮かぶのは、まじめに勉強した「優等生」だけで、イギリス近代史とは、権力を振り回し、自分の意を通そうとする「王様」に対して異議を申し立てた「人民」の歴史であることに、最近気づく。 すべて、「王様」が何かをしようとし、「王様」以外が、それに異議を加え、制限してきた歴史が、「近代化」だということを、かつての「豪ノモノ」はわかっていたのではないか。 吉野先生は、大正4年のお生まれ、すでに100歳を超えて存命中である。お会いする機会はないが、お会いすれば、そんな昔ばなしでもできるのだが、と考えている。 #
by nostal_z
| 2018-08-16 08:48
| 童年往時
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2018年 08月 14日
「大学ノート」という不思議な呼称のノートがあった。大判で、大学生でなければ使えないと思っていた。高校生が使うのは中判のノート、「大学」の語に特別の感情を抱いていた時代である。 その中判ノートを両開きにして、左側部分、左から3分の1の箇所にケイ線を引くことを命じられた。世界史の吉野信良先生の授業である。 先生の授業はオールドタイプの「ノート読み上げ授業」で、教授者がノートを読み上げ、生徒は筆写する、という形式である。 ケイ線より右から始め、見開きの右側部分までぎっしりノートする。あとで読み直し、自分で要約し、キーワードを左側の空欄に書く。 「大学ノート」は、どれもそういう体裁になっているのを、大学に進んで知るが、高校生にとって、中判ノートを大判ノートのように使うことが新鮮で、大学の授業のように思えた。 「大学」の語に特別な感情を持っていた時代である。大学に行きたいと思った。 私の身近には学校の先生以外に大学卒業生、あるいは大学生がいない。小学校同級生のほとんどが、中学卒業後すぐに働いていたし、高校卒業後に就職というのが普通の時代である。 京都では「学生さん」は尊敬されるが、「商都大阪」ではダメで、いくつになっても親のスネをかじっている甲斐性なし、と思われていた。「ウチの子はナンボナンボ稼ぐンやで」という話をいつも近所で聴かされた。 大学が遠い雲の上にあるような感覚、後年、大学紛争でブッ壊される大学の権威、「象牙の塔」ということばで代表される聖域に対して抱く素朴なあこがれが、当時の私にはある。 「大学生しか使えない」ノートは、私の錯覚で、同じように「大学」についての私の幻想は、大学入学後に破られる。その時改めて、なぜ大学に進学したのか、自分の生き方を含めて真剣に考えるようになった。 その私も、昭和30年、入学当座は「大学ノート」とインク瓶とペン軸、ペン持参で、意気揚揚と大学へ通っていた。 「もはや戦後ではない」という副題の「経済白書」が出るのは、その翌年のことである。 #
by nostal_z
| 2018-08-14 13:38
| 童年往時
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2017年 10月 13日
高校3年の担任、中村三郎先生を、私たちは「サブさん」と呼んだ。 それは、ある種の親しみと敬意を込めて発音されるのが常で、そうさせるものが、この身長150センチのコロコロ太った、「前から見ても横から見ても同じ幅」と自ら称しておられた先生の中にあった。 英語の先生であったが、英語の発音はそれほどお上手とも思えなかった。(それだけによくわかった)。 その上、途中に「エー」とか「アー」という間投詞が入る。それでも言葉に詰まると「ハウツーセイ」となる。毎時間の始めにこの調子で話があリ、時事ニュース、身辺の出来事、映画の感想等、話題は尽きない。 先生は、非常な感激家で、自分が応援に行かれた、ラグビーの試合に自校が勝った晩など、興奮のあまり、息子さんと二人深夜の街を走ったと、翌朝うかがった。 スポーツの持つ「力と熱と意気」(母校の応援歌の一節)にすぐ感激される点など、先生の非常に純真な性格のアラワレと考えられるのだが、当時、生意気で、少々皮肉な私の目には幼稚に見え、(申し訳ないことだが)内心では少し軽蔑していた。 毎年冬の校内マラソン大会も、先生はパンツ姿で最後まで落伍せずに完走され、そのフウフウ言われる姿を見ながら、「サブさんもトシやなあ」と冷やかしつつ、私たちは、自分の父親と同世代の先生に、何かしら親近感を抱くのである。 高校3年にもなると、異性との問題で頭を悩ます生徒も少なくなく、「恋愛」と「受験勉強」は両立するかと、私たちは真剣に議論したが、先生の答は常に「ノー」であった。「今は勉強だけ。恋愛は大学へ入ってから」、こういう話の繰り返しに、私たちはウンザリし、憤慨するのであった。 高校卒業後、初めての同窓会総会の後、一緒にビールを飲み、共に写真に納まった先生。 「ブラックアンドホワイトで頼む。カラー(写真)はいかん」と、カメラに向かって真っ赤な顔でおっしゃっていた先生も、その翌年の総会には、この世の人でなかった。 盲腸炎の手術が手遅れで腹膜炎を併発したということだった。50歳になっておられなかったはずである。 #
by nostal_z
| 2017-10-13 08:50
| 童年往時
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2017年 09月 22日
父は写真が好きであった。 戦前、ドイツ製の二眼レフ、ローライコードを愛用して、近所の写真屋を中心としたアマチュアカメラマンのグループに入り、作品を発表していた。 引き伸ばし機を買い、プリント、引き伸ばしまで自分でして、時にはコンクールに入賞したこともあリ、かなりの時間と労力を写真の世界に注ぎ込んでいた。 私をモデルに写真を撮り、気に入った作品は大きく引き伸ばし、おかげで幼児期の私のアルバムには、同世代の人に比べて、おびただしい量の写真が残っている。 戦後の父は、生活に追われ、愛用のカメラも、引き伸ばし機も手放すことになり、あとに何十冊もの重いカメラ雑誌が残った。 私のアルバムにも、小学校後半から中学・高校にかけては、集合写真以外のスナップショットは一枚もない。 遠足にカメラを持ってくる高校生はわずかである。 それでも戦前の生活、思い出が、写真に定着しているのはシアワセなほうであった。 あるとき、級友の家に遊びに行ったら、大きな家であったが、どの部屋の押入れもカラッポ。 アルバムもすべて、以前に住んでいた家ごと、空襲で焼いてしまった、ということだった。 「街頭スナップ」というのがあった。盛り場を歩いていると、カメラを持って寄って来る。 「ハイッ、撮りましたヨ」といって、申し込み用紙を渡す。写真を焼いて欲しい客は住所・氏名を書いて代金を渡した。 1日に何人ぐらい、客をキャッチ出来たのだろう。 カメラを持つ人が皆無の時代であった。カメラの大衆化、誰もがカメラを持つ時代になって、消えていった職業である。 「スナップ写真」「サンドイッチマン」「靴磨き」、いずれも昭和20年代を思い起こす代表的な職業である。 『広辞苑』に「サンドウイッチマン=2枚の広告板を身体の前後に掲げて街路を歩く人」とある。 家の近くでは、チンドン屋が主で、都心の盛り場でないと見かけなかった職業である。 「ロイドめがねに…」と鶴田浩二が歌った歌謡曲「街のサンドイッチマン」が流行したのが昭和28(1953)年だから、その頃が最盛期、以後、急速に姿を消した。 靴磨きを歌った曲「ガード下の靴磨き」。宮城まり子が「紅い夕日が…」と歌っていたのが昭和30(1955)年。 これも1960年代になると、路上で見られぬようになる。 #
by nostal_z
| 2017-09-22 09:18
| 童年往時
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2017年 09月 22日
高校入学のお祝いに「腕時計」を、という風習も、遠い昔の話になった。 それよりずっと以前、私が高校生であった時代に、腕時計を持つ高校生は少なかった。(カメラを持つ高校生は、もっと少ない)。 日頃、あまり意識したことがなかったが、ある時、体育の授業の日にカゼを引いて見学することになり、みんなの貴重品を預かった。 集まった腕時計を腕にはめた。 戦前の少年マンガ『冒険ダン吉』の気分である。 片腕にはめきれずに両腕に付けたが、それでも10個に満たない。 腕時計を持つ生徒が少なかったのは、学校生活で時計の必要がなかったからである。 授業は始業のベルで始まり、ベルで終わる。試験の時は、考査時間の真ん中と終了5分前に、監督の先生から声がかかる。真ん中に声がかかるのは、それを過ぎれば、答案を提出して退室してもよい、という内規があったからである。 3年生の後半にもなると、ある程度、答案が書けたと思えると提出、退室して、次の時間の準備をする生徒が増えた。 モギ試験の場合はそうはいかない。考査時間は充分あるが、自分で時間配分して問題を解かねばならない。家から目覚し時計を持ち込んで、机の上に置いて試験を受けたことがある。 大学受験の時は、父が自分の腕時計、我が家で唯一の腕時計を貸してくれた。 腕時計を必要としなかったのは、それほど、時間単位、分単位の生活に追われていなかったからであろう。 大学を卒業し、給料を貰って、初めて自分の腕時計を買った。 現在の時計と違って、ズシリと重かったのを覚えている。 あの重さは、社会人としての責任の重さなどではなく、時間に追われる奴隷の鎖の重さだったのか。 大学を卒業して10数年ばかりした頃、夕暮れ時に街を歩いていて、公園で遊んでいる小学生に時間を訊かれたことがある。 教えてやると「ジュクの時間だ」と、遊びを中断して走り去った。 現在の小学生は、みんな、時計を持っている。重量は軽くなったが、奴隷の鎖であることに変わりはないだろう。 #
by nostal_z
| 2017-09-22 09:07
| 童年往時
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