<謡曲「鉢木(はちのき)」考 43> |
後半は「源左衛門侘住居の場」で、常世女房白妙と妹(玉笹)がいて、源左衛門は猟に行って留守ということが姉妹の話で分かる。妹の名が玉笹と変わったのは、『八犬伝』の悪女玉章(タマズサ)のイメージを避けるためか。
そこへ時頼が訪ねて来る。いったん、宿を断った白妙は、妹の勧めで時頼を呼び戻す。
囲炉裏に火があるところは原典と違う。したがって、粟粥の接待はあっても、暖を取るために鉢の木を焚くことはない。能舞台ならともかく、歌舞伎のリアルな芝居の中で、鉢の木を焚いて暖を取るというのは、ママゴトめいて現実的でないからであろう。
客が寝た後に経世が帰り、残っていた粟粥を食べ、まだ残っていると聞き、「残りは馬に食はしてやらう」と、粟粥の残りを馬に与えながら夫婦ともども身の不運を嘆く。「夫婦の仕打その情合、まことに狂言とも思はれず」と評された場面である。
声を聞いて起きて来る時頼。改めて名を名乗る常世は、「かく困窮のその中にて三度の食を一椀与へ、あれなる馬を飼い置くは、今にもあれ鎌倉に変ある時は、かれに跨り第一番に馳せ参じ」と、時頼に語る。
鉢の木に目を止める時頼。「三つの鉢の木は、書籍に替へる心の学問」だと答える常世。
梅は花の儒者と称し、好文木の故事あれば、聖賢の教へある文事を忘れぬ便りとなし、花は諸木の魁(サキガケ)ゆえ、武門に取っての先陣に擬(ナゾラ)ふ。
松はその葉青々として、四時とも色替へず、その操正しきは即ち二君に仕へぬ心、雨露霜雪にも負けざるは、これ武士の大丈夫にたくらぶ。
桜は花の美しく、その姿優美にして、又散る時には一点の余念なきを、戦場にて一命惜しまぬ心によそふ。
と、武士の心構えを語る。
感じ入った時頼は、身分を明かし、常世の所領を安堵し、三か庄を与える。
ここで常世は、「かかる尊き御身を」藁屋に泊らせ、「汚れし三衣を香木にて清めまゐらせたく」と、鉢の梅の枝を折り、火にくべて扇であおぐ。
きれいな幕切れ、黙阿弥らしい巧みな改変である。
明治の法学者に穂積陳重(ホズミノブシゲ)(1856-1926)という人物がいる。ヨーロッパ法に詳しく、民法その他の法典の起草に参画した。弟の憲法学者・穂積八束(ホヅミヤツカ)、また長男の家族学者・穂積重遠、いずれも有名である。
陳重の夫人歌子は渋沢栄一の娘で、遺された『穂積歌子日記』(穂積重行編・みすず書房)は、明治23(1890)年から明治39(1906)年までの記録であるが、1000ページ近い分量、軽量したら1・6キログラムあった。
穂積陳重は、明治23年、第1回帝国議会の開会に先駆け、貴族院議員に勅選されているので、『穂積歌子日記』は、一上流家庭の奥様の日記ですまない、政界・実業界のインサイド・インフォメーションを垣間見させる、興味深い内容を含んでいる。
それだけでなく、この夫婦、あきれるばかりの芝居好きで、忙しい日常生活の合間を縫って、しばしば、劇場に出かけている。
明治23年12月14日(日)
朝くもる。後快晴あたたかし。朝より来客あり。兜町より案内にて新富座へ行く。12時開場。狂言は鉢の木、梶原石切、逆艪、二ツ蝶々等なりき。鉢の木は思ひしより面白からず。さかろが一等なりし。9時はね、後兜町にて12時まで親族会あり、1時帰宅。
これが『佐野経世誉免状』初演の時である。
もう一度「鉢の木」観劇の記録がある。
明治34年3月21日(木)
快晴。朝霧こめたれども後晴れて暖かし。春季皇霊祭なり。
午前12時半旦那様と共に明治座へ行く。狂言は一番目和田合戦なり。例の拙作なれば一向筋立たず。されども朝夷奈門破りは芸と云ひ道具立てと云ひ申分なく、誠に勇ましかりけり。
中幕鉢の木、左団次の常世は一通り、権十郎の最明寺極々拙劣。只源之助の白妙、近頃でんぽうなる女のみ演じ居れば如何と思ひしに、存外上品にて気韻もあり、誠に宜しかりけり。
「でんぽう」は「伝法」。「悪ずれて粗暴な言動をすること。あばずれ」と辞書にある。
穂積陳重夫妻は、お休みはあったとはいえ、9時間の歌舞伎鑑賞の後、夜遅くまでお食事会だったのですねえ。忘年会だったのでしょうか。
1.6kgの日記、全部、読まれたのですか?そのなかで鉢木に関するところを見つけられるとは!!