<謡曲「鉢木」考 番外その3 「見立て絵」「やつし絵」> |
女性が一人、寒そうに頭上に降り来る雪を袖で覆うようにして、雪の積もった橋を渡っている。
縦長の画面、川の流れと橋が対角線で交わる構図がみごとである。彼より少し後の浮世絵師安藤広重の「名所江戸百景」の名品「大橋あたけの夕立」の構図はこれを手本にしているのではないか。ただし、あたけの大橋のほうは夕立で、雨である。
春信の画は、藤原定家の「駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ」の見立て絵であるが、現代の鑑賞者は、題名を見ないと、そのことに気がつかない。
浮世絵に、「見立て絵」「やつし絵」というジャンルがあることを、読者の一人に教えられた。「見立佐野の渡り」以外にも、「見立て鉢木」「やつし鉢木」等の作品があって、いずれも美人画で、作者は鈴木春信である。
「見立て」というのは、江戸時代の芸術創作上の趣向の一つで、歌舞伎でいえば、『曽我対面』の幕切れ、工藤祐経が鶴の形、五郎・十郎と朝比奈が富士の形に見立てた見得で終わる例。
また、『仮名手本忠臣蔵』七段目「一力茶屋の場」の「見立て遊び」の場面、
仲居 そんなら私が見立てましょ。この箸ちょっとこう借りて、
九太(クダ)さんのお頭(ツム)をこう挟み、そこで私の見立
てには、梅干しなんぞはどうじゃいな。
などがよく知られている。
浮世絵では、「題材を古典文学や故事、伝説、史実などにとりながら、時代を超越して、当世風の人物や背景で表現した絵画の総称」と小林忠は定義している。(平凡社『大百科事典』)
それが、「見立て絵」あるいは「やつし絵」と呼ばれる絵画表現で、「見立て絵」の中で、表わす人物を当世の人間に置き換えた絵を「やつし絵」と呼んでいる。
「見立」はあるものを別のものになぞらえること、「やつし」は昔の権威あるものを現代風に卑近にして表すこと
と「近世文芸の表現技法<見立て・やつし>の総合研究」プロジェクト代表の山下則子は定義している。
ただし、先ほどの「見立佐野の渡り」のように、題名に「見立」とあるが、「やつし」とどう違うか、専門家でも判断に迷うところである。
昨年秋、さいたま市大宮にある「大宮盆栽美術館」で開かれた特別展≪盆栽につもる雪―「鉢木」物語の世界≫に招かれ、鈴木春信の「やつし鉢木」、彼と同時代の絵師・礒田湖龍斎の「冬」(これも「やつし鉢木」)歌川豊国の「やつし鉢木」等を見ることができた。いずれも三鉢の盆栽で、「鉢木」の世界であることを示しているが、題名を見ないとただの美人画で、「鉢木」ものとは気がつかない人が多いのではないか。いずれも「女鉢木」である。
同じ展覧会に展示されていた作品で、山東京伝(作)・曲亭馬琴(代作)・北尾重正(画)による絵本『浦島太郎竜宮羶(ナマグサ)鉢木』が面白かった。
浦島太郎の世界を下敷きに、乙姫を奪い、竜宮を貶めようとした敵役のトラフグの暗躍と、浦島・乙姫に助太刀する亀の活躍をい描いた物語で、竜宮に住む魚類や亀などを人間の頭部に乗せてその人物を表す、いわゆる「擬人物」による絵画表現である。
身をやつして隠れ家に住むカメのもとへ、雪に迷った旅僧に姿を変えたトラフグが訪ねて来る。亀が、客へのもてなしに、秘蔵してきた「三つのはちさかな」を切ろうとする。縁側で鉢の上に載せられた魚は、「桜鯛」、「梅の花エビ」「かつお(松魚)」で、包丁を振り上げた亀の姿は、典型的な「鉢木」の「見立て」であるが、こうなれば「見立て」というより、パロデイである。
「見立て」にしろ「やつし」にしろ、いずれも、作者と読者(あるいは観客)双方共通の教養を前提にして成り立つ手法であり、江戸時代、社会全体の教養レベルが相当なものに達していたことがよくわかる。