童年往時<83 学校食堂> |
中学でなかったもので高校に入って出会ったものがズイブンあるが、「学校食堂」もその一つである。
戦時中からの食糧統制も撤廃され、昭和25(1950)年2月に牛乳の自由販売が始まり、5月には外食券なしで米以外の主食(そば、うどん、パン)が食べられるようになる。
タテマエとしての配給制度は残っていたが、お金さえ出せば一応、何でも自由に食べられるようになった。
「高校の学校食堂は安い(安くてウマイ)」と評判だったせいか、隣接する大阪府庁の職員もよく利用していた。
役所の昼休みと学校の昼休みの時間がズレるので、食堂にとっても好都合だったようだ。
正面玄関を回って来るのはメンドウと、食堂調理場奥の裏口から入って来る客もいた。
金を出せば米飯も食べられるようになっていたが、生徒の多くは家から「米持参」で、休み時間に食堂へ持ち込み、計量してもらって、米1合につき1枚の「ライス券」をもらう。
食事時間にそれを出せば、その分、割り引いた値段でカレーライス等が食べられた。
それ以外にも、「お金を触った手で食物の調理をするのは不衛生」という声があったのか「食券制」が原則で、5円10円が綴りになった食券が売られていた。
この食券の管理が、生徒自治会厚生委員会の仕事である。
印刷したばかりの食券の綴りに自治会の印を押す仕事を、委員長と一緒にしたことがある。押印の終わった食券を食堂に渡し、売上げの何パーセントかが自治会に払い戻されていたようだ。
食堂経営者のOさんは、親が子を見るような目で、食欲旺盛、ガツガツ食べている私たちを、満足そうに見ていることがあった。
私たちが卒業する日に発行された学校新聞に、Oさんは「お祝いのことば」を寄稿。
入学した時、ひ弱そうだった生徒が3年間で、見違えるようにたくましくなったこと、食堂がその成長に大きな役割を担ったことを誇りに思うと書いておられた。
教育者の心を持つ商売人が、昔はいたということか。